今回はざっくりと二本立てです。
①#WeCanConsider
私たちがするべきは内面の革命だ。
安易にメディアや誰かの概念を鵜呑みにして行動することは例の警官や暴君となにも変わらない。本当に大事なことは"思考し続けること"(②で簡便に叙説)"。そして自分と身の回りの人を大切に想うことである。それが結果として何らかの発言や行動という意思表明に繋がるのだ。
間違いは軽易に正す前に、まず間違いの原因を模索するべきだ。その時の易々たる価値観で軽率な行動をとれば、それは自身と、それに対する事象との関係性は平行線の一途を辿ることになりかねない。
何であれまず、自身に対する問題提起からはじめるべきだ。過言と思うかもしれないが、あらゆる言い訳や理屈、固定概念をとっぱらい、すべての悪因は自分にあると考える。まずはそう思考してみることが自身の価値観に革命を起こすための第一歩になる。そしてそれが、あらゆる課題に取り組むにあたって望ましい姿勢に繋がるのだと私は考える。
②思考すること
より重要なのは"知識"ではない"体験"としての思考形態を更新し続けることであるである。"思考すること"そのものを簡潔に述べるとすれば、それはまず自身に問い、考え、そして語ることである。
一人で考える時、私たちは自問自答を繰り返す。つまり思考とは自身との対話なのだ。そして対話であれば、語る相手、つまり「聞く」人がいる。一人で思考する時、この聞き手は自分自身であるが、それは潜在的には他者である。したがって思考することは、他の人との対話、「共に問い、考え、語り、聞くこと」であると言える。
思考形態とは、このようにごくありふれた、きわめて人間的な営みである(それはいずれ哲学になると私は思う)。それは簡潔に「共に生きること」と言い換えてもいいだろう。互いに「問い、考え、語り、聞く」こと――そのような共に考える営みは、人が生まれた直後から始まり、まさに人と人が共に生きていくことそのものなのである。
以下は余談である。
この記事を拝読頂いて、これから"思考すること"について何かしらはじめてみようと思って頂けた方にはこれがご参考にになれば幸いである。
思考し続けることは大切だがはじめから毎回"考え抜くこと"を意識することを私は推奨しない。思考することに苦痛を感じたら、一度離れてみる。なぜならこの場合まずは"思考することを習慣にすること"が最優先であるからだ。
はじめのうちは考え抜かなくても、それが自身にとって価値ある行為と無意識にでも心のどこかに留まるような事柄であるなら、いずれふとした瞬間に思いだされる。その繰り返しで思考は深められる。これが苦にならなくなると、一つ一つの思考の質が上がり、思考し抜く力を付けていく準備ができる。("思考すること"については今後も記述していくつもりである。)
何かを始めることに遅いということはなにもない。